私たちは自分史の中に始めからあったものを掘り出す考古学者でも,無から何かをつくり出す発明家でもない。詩人と同じように創作家であって,ナラティヴを通して,後知恵によって,人生という作品をつくり,そしてつくり直す。その仕方は,経験がその中に孕む潜在性,いつか解き放たれる潜在性を,後に起きることに応じてあれこれの方向に解き放すというものだ。この運動はさしあたり,完全に前向きでも後ろ向きでもなく,一種の詩的な形の螺旋運動,弁証法的に前後を行き来する運動であり,それは経験を理解するのに必要な想像力に発する。死が大声ではっきりと警告するように,「時計の針を戻すことはできない」。このように,時が前へ進むのは取り消せないというのはまったく正しい。これは先に私が時計時間として述べたことである。けれども,これも先に述べたことであるが,私たちは出来事がどれも同じ時の刻みに沿って次々と起こる時計時間だけでなく,ナラティヴ時間も生きている。あの家へのドライブが意味と重要性を得たことには納得がいく。娘が病気になるまでは見えなかった,私の父と娘との繋がりが私の心に生じたことも,腑に落ちる。意味はナラティヴな想像力から出ていて,そして意味とは,ひとえに,過去だけでなく自己そのものをもつくり,そしてつくり直すことの一部なのだと私は考えている。
マーク・フリーマン 鈴木聡志(訳) (2014). 後知恵:過去を振り返ることの希望と危うさ 新曜社 pp.69
PR