国民国家は,言ってみれば言語の間引きをおこなっているのだ。この点で国民国家は,世界画一化をおしすすめるビジネス・マネージャーであるといってよい。引きつづき言語の世界地勢を数値で特徴づけてみるならば,次にあげる一連の数字がたいへん重要な意味をもつ。1945年に国連憲章は52の加盟国によって調印された。現在,国連には160カ国が加盟している。だから,いまある国家の3分の2はせいぜい1世代を経たくらいの年齢にしかならないのだが,ヨーロッパの先例にならうかぎりで,それらの国民国家はただひとつの言語を国民統合のシンボルとして位置づけ,この言語にアルファベット文字をあてがって標準化しようとしている。そして,世界文明の中身を——好まれる言い方を用いるならば——「輸送」し「コミュニケート」することができるように,その言語を「発展」させることを自らの課題とみなしている。これらの国家は,ばかげた言語観を輸入して,ヨーロッパでは数世紀かかった「近代化」のプロセス,つまり,中世の普遍的ラテン語による文字文化から俗語が分離したプロセスを数十年のうちになしとげることを目指している。国境の内部の土地を完璧に地ならしする以外に,どうしてそんなことがなしとげられようか。そして,それによって,年若い国家とそこで伝統的に話されてきた諸言語は,まったくの無防備状態におかれてしまうのではないだろうか。
ウヴェ・ペルクゼン 糟谷啓介(訳) (2007). プラスチック・ワード:歴史を喪失したことばの蔓延 藤原書店 pp.30
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