死体でさえ舞台にあがることができた。16,7世紀,公開解剖の場に立ち会うのは,時代の最先端を行くお楽しみだった。チケットを手に入れた幸運な人々にとって,解剖の日はスピーチ,行列,音楽を楽しむ祝祭の日だった。1597年のイタリアの広告ビラには,リュート奏者と「陽気に騒ぎ,足を踏み鳴らす」観客たちの行列について書いてあった。
高まる需要にこたえて,解剖「劇場」はヨーロッパ全土に広まった。解剖のラスベガス,イタリアのパドヴァでは,解剖学者のヒロエニムス・ファブリキウスが大いに人気を集め,もっと広い劇場を作る必要が生じたほどである。そうした劇場自体も上等の材木を使い,高価な装飾を施して入念に作られていた。案内係が秩序を保ち,チケットを持たずに来て,窓からのぞいたり柱の後ろから見たりする人々は,専門の係員によって追い出された。チケットを持つ人は,視察にきた高官でも医学生でも塩漬け魚の売り子でも,ユダヤ人でさえ歓迎された。
観客は質問を許されていたが,大声で笑うことは遠慮しなければならなかった。よく見るために体の部分を観客にまわすこともあったが,土産に持ち帰ることは禁じられており,地域によってはべらぼうな罰金が科された。チケットの売上金は豪勢な宴会の費用になったり,死刑執行人への支払いに当てられたりした。
ネイサン・ベロフスキー 伊藤はるみ(訳) (2014). 「最悪」の医療の歴史 原書房 pp.91-92
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