たとえば「狐のようにその地位につき,獅子のようにその職務をおこない,犬のように死んだ」という文章を読んで私たちは,なんとなく感じを理解してしまう。が,よく考えてみると,私たちはたいていキツネもライオンも,動物園のおりのなかでしか見ていない。言うまでもなく,人間に飼われているそれらは本当のキツネやライオンの姿ではない。おりのなかのキツネはほかの動物にくらべて特に狡猾なわけではなく,与えられるえさを待つライオンは百獣の王よりもむしろ家畜に近い。にもかかわらず,人は狐や獅子の比喩を理解する。それは,じつは直喩のY項となっているものが,本物の動物ではなく,むしろそれらの動物たちについて,子どものころから童話などを通してはぐくんできたイメージだからである。本物ではない,うわさの動物なのであった(狐のイメージが,日本では昔から人を化かし,西洋でもずるがしこい,という共通項を示すのは,おもしろい)。
かえって,私たちが狐や獅子よりも生態をよく知っているはずの犬の場合のほうが,直喩は不正確になりやすい。なるほど「犬死」などというぐあいに,私たちの国でもみじめな死にかたを連想させるイメージがないわけではないが,洋の東西を問わず,犬にはみすぼらしいどころか立派なイメージもただよっていて,ひょっとするとくだんの法王の死にざまもさっそうたるものと見えかねないのである。
佐藤信夫 (1992). レトリック感覚 講談社 pp.70-71
PR