たとえばあなたが,いま,ある情景を見て,
男の子が《急いで》走って来る
ということばを口にしたとする。その表現であなた自身がじゅうぶんだと思えばそれはそれでいい。ただ,その際,「急いで」ということばだけでは何か正確に表現しきれないものが残る……と感じたとき,はじめてことばの工夫がはじまるのだ。
直喩による表現ならば,その子の走りかたを何かにたとえることになる。そこで,問題の文章は,
男の子が《・・・・・・のように》走って来る
という構造に変わる。ためにし,この《・・・・・・のように》の部分に,いろいろのことばを実験的に代入してみよう。
小犬のように/子鹿のように/まりのように/矢のように/風のように/坂をころげ落ちる小石のように……
と,およそ月並な語句を並べてみたが,もちろん,この部分に代入できる表現の数は無限である。そして,それらの可能性のなかから,認識の造形として,あるいは心情的に《もっとも正確な》ものを選び出すこと,それが直喩の原理にほかならない。説得力のあることばも芸術的なことばも,けっきょく,本来は心情的に正確な表現にほかならなかった。
けれども,男の子が《・・・・・・のように》走ってくる,という表現の空欄に,正確さとは何の関係もない,ほとんどでたらめなことばを代入しても,それなりに新しい風景が描き出されてしまう。言語のそういう不思議な可能性に気づいたとき,人々はことばで遊ぶことをおぼえたのであった。ことばによる想像力で遊ぶことを知ったのである。私がかりに,広い意味でレトリックの芸術的機能と呼んでいるもののなかには,多量の遊びが含まれている。
佐藤信夫 (1992). レトリック感覚 講談社 pp.88-89
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