「いま私はバルザックを読んでいる」という文章は,全然レトリカルな感じがしない,ごく常識的な表現だが,そこにも隠喩が働いている。「バルザック」は人名であり,人間である。しかし,私はいま人間を読んでいるのではなく,また人間の顔色を読んでいるものでもなく,人間とは似ても似つかぬ書物を読んでいるのだ。ただ,その作品と作者は,いわば親子のようなきずなでつながっている。これは,「灘」とか「ボルドー」,「コニャック」,「スコッチ」などという地名のゆかりでその土地名産の液体を表現する場合と同様,広い意味で赤頭巾型の,縁故による比喩である。
また,スピード違反で「白バイにつかまった」などと言うときも(オートバイは機械であり,決して勝手に人間を追いかけたりつかまえたりはしない),乗り物と乗り手の名称が,ゆかりによって赤頭巾風に流動した結果の換喩である。
このようにすでに常識化した換喩は,特に分析的に意識しないかぎり,もはやことばのあやとして感じ取られはしない。それらは(前章で触れたような)転化表現=カタクレーズとして慣用の体制に編入済みだからである。隠喩におとらず,じつにおびただしい換喩が,転化表現となって私たちの日常言語をささえている。
佐藤信夫 (1992). レトリック感覚 講談社 pp.142-143
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