数にかぎりのあることばをたよりにしてかぎりない事象に対処しなければならない,言語の宿命が比喩を必要とする……とは,これまでもくどいほど強調してきた事実だが,そのための人々の様々の工夫がつもりつもって,辞書のなかの単語たちは,すこぶる弾力的な意味のひろがりをもっている。それは,転化表現となった比喩の集積だが,そのように慣用化する比喩のうちで,隠喩や換喩ほど目立たないくせにじつはもっとも大きな比率をもつものは提喩であろう。
その理由は,提喩性こそ,隠喩性や換喩性よりはるかに語彙体系の本質に深くかかわる性格だという点にある。語彙とは,ある言語圏に生きる人間たちが,世代をかさねつつ,無限に広い意味領域を切り分け区分してきた分類法の集積である。言語がその文化圏に生きた,生きる,生きるであろう人々全員の共有財産である以上,語の概念=意味がある節度を守りながらも不断に(日本語であれば,ひとりの日本人が1回発言するたびに少しずつ)膨張と収縮をくりかえすのは当然のことであろう。そして,概念=意味の膨張と収縮とは,提喩現象にほかならない。提喩は,比喩のうちでもっとも比喩性の目立たぬ形式である。レトリック学者ル・ゲルンが,俗に類と種の提喩と呼ばれているものは比喩ではなくたんに正常な言語現象にほかならないという,粗忽な断定をくだした気もちも,わからぬではない。意図的な表現として目立つ提喩は,正常な言語活動としての提喩表現のうちの,いわば「前衛」的なかたちのことなのだ。そのうちのあるものはすぐれた認識的前衛であり,あるものは娯楽的前衛である。
私たちの日常言語は,語彙体系に回収され編入された提喩であふれている。新しい事態に対処するための便利な新造語としての提喩も多い。都会を「緑化」しようというのは,決して町じゅうにグリーンのペンキを塗りたくろうということではない。
佐藤信夫 (1992). レトリック感覚 講談社 pp.205-206
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