台座と彫像はポリネシア全体に広く普及していたというのに,なぜイースター島民だけが桁違いの社会的資源を投入してその建造に心血を注ぎ,最大の石像を立てることに熱中したのか?そういう状態に至るまでには,少なくとも4つの異なる要因が作用し合っている。第1の要因は,太平洋に存在する岩石の中でも,ラノ・ララクの凝灰岩が最も彫るのに適した材料だったことだ。それまで玄武岩や赤い岩滓を相手に四苦八苦していた彫り手にとって,この凝灰岩は「彫ってくれ!」と訴えているのも同然の材料だった。2番目に,太平洋のほかの島々では数日間の航海でほかの島々との行き来ができたので,エネルギーと資源と労力とを島同士の交易,襲撃,探索,植民地化,移住などに充てていたが,イースター島には,その孤立性ゆえに,他と競合するというはけ口が閉ざされていたという事情があった。ほかの島々の首長たちは,島同士の交流のなかで,互いの威信と地位を賭けて相手を打ち負かすべく争い合った可能性があるが,私の教え子のひとりが言ったように,「イースター島の腕白坊主たちは子どもらしい遊びを知らなかった」のだ。3番目に,前述したとおり,イースター島が緩やかな地形に恵まれ,各領地に相互補足的な資源があったせいで,ある程度の統合がなされていたことが挙げられる。その結果,島じゅうの氏族がラノ・ララクの石を入手できたので,石を彫ることに夢中になれたのだろう。マルケサス島のように政治的に統一されないままだったとしたら,領地内を近隣の氏族が石像を運んで通行しようとした際,(最終的に現実となったとおり)その行く手を阻んだだろう。4番目として,これから明らかになるように,台座と石像の建造には大人数の作業員の食糧が必要になるが,支配層の管理下にある高台の農園で余剰食糧が生産されていたおかげで,そういう大事業も可能だったことが挙げられる。
ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(上巻) 草思社 pp.157-158
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