プエブロ・ボニートの最後の建て増しは,1110年から1120年のあいだに始まったと目されている。かつて外向きに開放されていた広場の南側を,壁一面の部屋で囲んだもので,その目的から推して,紛争が頻発していたと考えられる。プエブロ・ボニートを訪れる人々が,もはや宗教儀式に参列して命令を受けるだけでなく,騒動を起こし始めたことは間違いないだろう。プエブロ・ボニートと近隣のチェトロ・ケトルのグレートハウスにおいて,年輪年代法により最後の梁材とされた木は1117年に切られ,チャコ峡谷におけるほかの最後の梁材は,どれも1170年に切られている。ほかのアナサジ遺跡には,人肉食の痕跡も含めて,紛争のあった証拠がさらに数多く見受けられる。また,カイエンタ・アナサジが,わざわざ畑からも水源からも遠い急勾配の崖の頂に居住していたのは,防御態勢をとりやすいからだとしか考えられない。チャコより長くもちこたえ,1250年以降も存続したアナサジ居住地では,明らかに戦闘が激化していったようだ。その証拠として,防御用の壁,堀,塔が急増していること,散在していた小さな集落が丘の頂上の要塞にひとかたまりに集まっていること,埋葬されていない死体ごと村が故意に焼かれていること,頭皮を剥ぎ取られた痕跡のある頭蓋骨,体腔に矢尻の残った骨などが挙げられる。環境問題と人口問題が住民の不安と戦闘という形で爆発する事例は,本書で頻繁に取り上げる主題であり,それは,過去の社会(イースター島,マンガレヴァ島,マヤ,ティコピア島)にも現代の社会(ルワンダ,ハイチなど)にも散見される。
ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(上巻) 草思社 pp.239-240
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