遺棄の主因はこのように多様だが,つまるところ,すべては同一の根本的な難題に帰する。すなわち,脆弱で対処しにくい環境に住む人々は,“短期的”には見事な成果をもたらす理に適った解決策を採用するが,長期的に見た場合,そういう解決策は,外因性の環境変化や人為的な環境変化——文書に記された史実を持たず,考古学者もいない社会では,未然に防ぐことができなかった変化——に直面したとき,失敗するか,あるいは致命的な問題を生み出すことになる。ここでわたしが“短期的”と引用符付きで書いたのは,アナサジがチャコ峡谷でじつに600年もの歳月を生き延びたからだ。これは,1492年のコロンブス到着以来,新大陸のどの場所であれ,ヨーロッパ人が居住した期間よりかなり長い。アメリカ南西部のさまざまな先住民たちは,その存続中,5種にわたる経済の効率化を試していた。このなかで,“長期”にわたって,例えば,少なくとも千年のあいだ持続可能(サステイナブル)なのはプエブロの土地利用法だとわかるまで,何世紀もの歳月が費やされている。このことを知れば,われわれ現代のアメリカ人も,自分たちが住む先進国の経済の持続可能性を過信する気にはなれないはずだ。ことに,チャコの社会が1110年から1120年に至る10年間に最盛期を迎えたのち,いかにあっけなく崩壊したか,また,その10年間を生きたチャコの人々にとって,崩壊のリスクがいかに蓋然性の低いものに見えたかを考えれば,なおさらだろう。
ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(上巻) 草思社 pp.245-246
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