オーストラリアだけでなく現代の多くの国々が,みずからの環境を搾取(マイニング)しているが,オーストラリアはいくつかの理由から,過去と現在の事例研究の掉尾を飾る地としてふさわしい。この国は,ルワンダ,ハイチ,ドミニカ共和国,中国とは違って,本書の読者となる人の大部分が住む先進国のひとつだ。先進国の中でも,この国の人口と経済は,アメリカやヨーロッパや日本と比べてずっと小さく,あまり複雑ではないので,状況を把握しやすい。生態学的に見ると,オーストラリアの環境は並はずれて脆弱で,おそらくアイスランドを除けば,先進国中で最も脆弱だろう。その結果,他の先進国にいずれ大損害をもたらすかもしれず,第三世界の諸国ではすでに顕在化している多くの問題——過放牧,塩性化,土壌侵食,外来種,水不足,人為的な旱魃——が,オーストラリアではゆゆしき段階を迎えつつある。つまり,オーストラリアは,ルワンダやハイチのように崩壊の危機に瀕しているわけではないが,現在の傾向が続けば先進国のどこかで実際に起こるはずの数々の問題の,毒味をしているようなものだ。とはいえ,それらの問題の解決をめざすオーストラリアの先行きは希望を与えてくれるし,けっして暗くはない。それに,オーストラリアは,よい教育を受けた国民と,高い生活水準,世界の基準から見て比較的公正な政治・経済制度を有している。したがって,オーストラリアの環境問題を,どこか別の国の環境問題を説明する際にありがちなように,教育を受けず貧困にあえぐ国民と,ひどく腐敗した政府及び企業による不当な生態系管理の産物としてかたづけることはできない。
ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(下巻) 草思社 pp.158-159
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