2つの極端な考え方が可能で,これまで,それが受け入れられてきた。ふつうの庶民に自己とは何かを尋ねてみれば,ろくに考えずに返ってくるのはおそらく,個人の自己というものが実際に,ある種の実在物だという答えだろう。すなわち,彼の頭のなかに生きている幽霊のような監督者,彼の思考を担っている者,彼の記憶の収納庫,彼の価値観の持ち主,意識をもつ内なる「私」といったところだ。今なら,きっと「魂(ソウル)」などといいう単語を使ったりはしないだろうが,心のなかにもっているとされる魂という古くからの考え方に非常によく似ているだろう。自己(あるいは魂)は,肉体に実行させる力と,永続的な独自の特性をもつ実在の実体なのだ。自己についてのこの現実主義的イメージを,「本来の自己(proper-self)」の観念と呼ぶことにしよう。
けれども,一部の精神分析家や心の哲学者たちのあいだで人気が高まっている修正主義的な自己のイメージは,これとは対極にある。この見方によれば,自己はそもそもモノなどではなく,説明のためのフィクションだというのである。誰もその内部に魂に類似した主体など実際にはもっていない。私たちは,彼らの行動(そして,自分自身の場合には,自らの個人的な意識の流れ)を説明しようと試みるときに,この意識をもつ内なる「私」の存在を想像するのが実用的であることを知っているだけなのだ。実際には,自己はどちらかといえば,一連の伝記的出来事や傾向の「物語的な重心」に似たものと言っていいかもしれない。ただし,物理学的な重心と同じように,実際にそういうモノ(質量や形や色をもった)は存在しない。自己についてのこの非現実主義的イメージを,「仮想の自己(fictive-self)」の観念と呼ぶことにしよう。
ニコラス・ハンフリー 垂水雄二(訳) (2004). 喪失と獲得 進化心理学から見た心と体 紀伊国屋書店 p.42-43
PR