一部の懐疑論者は,この出来事に関する聖書の記述の正確さに対して,『旧約聖書』の預言者が,何世紀も先に何が起こるかを「あらかじめ語る」ことなどできたはずがありえないという理由に基づいて,異議申し立てをするべきだと思っている。しかし,そうした懐疑主義は,的はずれだと思う。なぜなら,注目すべき要点は,将来を預言することそれ自体には,預言者がその預言がいつどこで実現されるかを決定しないままにしているかぎり,なんら奇跡的な事柄を必要としないということである。たとえば,数十万人の人間からなる1つの部族には,たとえば,300年のあいだに100万人以上の赤ん坊が生まれることを考えれば,そうした誕生のうちの1人が,多少とも預言されたとおりに「起こる」かもしれない可能性は比較的高いだろう。それは,どこかで誰かに起こらなければならないだろうというものではなく,それは単に,もし,どこかで誰かに実際に起きたときに,それほど感心するほどの理由はないということにすぎないのだ。
ニコラス・ハンフリー 垂水雄二(訳) (2004). 喪失と獲得 進化心理学から見た心と体 紀伊国屋書店 p.278
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