いつの時代もそうだった。18世紀のヨーロッパの記録がそれを物語っている。フィレンツェにあったオスペダーレ・デッリ・イノチェンティ(無垢の家)という孤児院では,1755年から1773年の間に1万5000人以上の赤ちゃんが収容されたが,1回目の誕生日を迎えるまでに3分の2が死亡した。同じころのシチリアでは,あまりに多くの孤児が死ぬので,孤児院の門に「ここでは子どもたちが公費で殺されている」という標語を彫刻すればどうか,と近隣のブレシアの住民が提案している。19世紀のアメリカの孤児院の記録からも同様のことが読み取れる。たとえば,ニューヨーク州バッファローにあった,寡婦や孤児や乳幼児を保護する聖メアリー救護院の記録によれば,1862年から1875年の間に2114人の子どもが収容されたが,半数以上の1080人が到着から1年以内に死亡している。生き延びた子どもの大半には,母親が一緒にいた。「子どもたちを養育するために,シスターたちは食べものを与え,換気し,清潔にするなど,可能なかぎり注意を傾けて世話をした。しかし,大半の子どもたちは死んでしまった」
デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.51-52
PR