後になって彼は,この授業はもっとも重要な学習経験のひとつだったと述べている。しかし,そのときは悩み傷ついた。21世紀の現在,私たちは人と人との違いに対して寛容になろうと腐心しているので,つい忘れてしまうのだが,かつてはそのような違いに対する不寛容が文化的に許容されていたのだ。たとえばターマンは,価値ある有能な階級と価値のない愚鈍な階級のどちらかに人間を二分しようとしたが,当時それを疑問視する人などほとんどいなかった。スタンフォード・ビネー式知能検査で,相対的に数値が低い人をターマンが「精神薄弱」と呼んだことは先に書いたが,それはまだ婉曲な表現だったのである。「精神欠陥」や「軽愚」,さらには「有害な者」と呼ぶ人までいた。足の不自由な人は「びっこ」,ホームレスは「ルンペン」,しゃべれない人は「阿呆」と呼ばれた。そして,実在するエルマー・ファッドたち,つまり,ハリーのようにしばしばRの発音に苦労する人は,「マヌケ」と呼ばれた。先生が下手で話にならないと思ったら,学生がブーイングするというのは,よくあることだったのだ。
デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.92
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