彼は初めて受け持った大学院生にも恵まれていた。ブルックリン生まれで,既成概念にとらわれないエイブラハム(エイブ)・マズローという学生の担当になったのだ。師弟には,行動主義心理学の近年の動向に懐疑的であるという点で連帯感が生まれていた。マズローは日記にこう記している。「行動主義の成し遂げたことは大きい。私を心理学へと導いたのは,ワトソンのすばらしい研究だ。しかし,そこには致命的な欠点がある。研究室では具合が良くて役に立つが,研究室から出るときには,白衣と同じように,脱いで置いていくしかない。つまり,家で子どもや妻,友人と一緒にいるときには,役に立たないのだ。……もし研究室で動物を扱うように,家で子どもを扱ったなら,きっと妻に目玉をくり抜かれるほど激しく責め立てられるだろう」。確かに自分の妻ならそうしかねない,とマズローは思っていた。
マズローがもっとも関心を持っていたのは,人間の行動だった。心理学の使命とは,人が自らの可能性を最大限に引き出せるように手助けをすることだと信じていた。人間は最良のものを秘めている(愛情,優しさ,思いやりに満ちている)ことを信じて疑わなかった。ウィスコンシン大学で博士号を取得して間もなく,「人間は皆,根は善良なのだ」と日記に記している。もし悪いおこないをするとしたら,そこには原因があるはずだし,それを突き止めれば助けることができるはずだ。「それを証明するためには,不愉快や意地悪や卑劣といった表面的な行為の奥底にある動機を突き止める必要がある。動機がわかれば,その結果として生じる行動には腹が立たなくなる」。人間の良識に対して迷いのない信頼を抱いていたマズローは,後に人間性心理学運動の創始者となり,1960年代の反体制文化(カウンターカルチャー)の有名なヒーローになった。死後何年も経った今日でも,影響力のある心理学者である。
デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.112
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