ハリーの研究に対する憤怒の狂躁は,彼の死後に始まった。ときには,彼がそうなるように完璧に計算していたのではないかと思えることもある。「まるでハリーが腰を下ろして,『あと10年もすれば,私はもうこの世にいないだろう。その後にものすごく面倒なことが起こるから,あとはよろしく』と言ったみたいだよ」とビル・メイソンは言う。また,動物権利運動家は,彼の死後に抗議する方がうまくいくとわかっていて,攻撃のスケジュールを変えたんじゃないかと思える時もある。ハリーは戦うのが大好きだったのに残念だな,とスティーヴ・スオミは言う。「彼は物議を醸して論争するのに慣れていたから,徹底的にやり込めただろうに」とアーウィン・バーンスタインも同じ指摘をする。「ハリーは死んでからターゲットにされた。それは卑怯な話だ,とずっと思ってたんだ。彼が生きていたら,十分すぎるくらいうまく自分の弁護ができただろうに」
バーンスタインは続ける。「動物権利運動家は,わざとハリーの罪を誇張している。スパイク・マザーには先の丸い突起しかつけていなかったのに,釘の先端が鋭く尖っていたと言ったりするんだ。それに,ハリーが研究所のすべてのサルを隔離したかのような言い方をする。選ばれた少数のサルだけなんだがね。ハリーが自分のサルの幸福についてどれほど真剣に考えていたか,動物権利団体はまったく評価しようとしない」。デュエイン・ランボーは,ハリーがNIHの規定するケージのサイズは大人のサルには小さすぎると考えて,連邦政府の規格よりも大きなケージを建てたのを覚えている。
スティーヴ・スオミはこう指摘する。「ハリーが母性愛の研究をしていた当時,研究室や動物園で飼われている霊長類の飼育の標準は,個別飼育だった。つまり,部分的な社会的隔離だよ。ハリーがどれほど破滅的かを証明するまでは,それが標準だったんだ。そして,施設によっては——実際のところ,私が移籍する前のほとんどのNIHの施設では——その標準が変わるまでに長い時間がかかった。たいてい,サルや類人猿の飼育に責任を持つ獣医たちが強硬に反対したのさ」
ハリーの実験が(それに加えて,それを説明するハリーの強烈な言いまわしが),彼のしたことに対する批判を招いたのかもしれない。それでも,その抗議のいくつかは,間違いなく歴史の再解釈によって出てきたものだ。私たちは,20世紀半ばの研究者にも現在の社会意識を共有してほしいと望むかもしれない。しかし,ハリー・ハーロウの研究方法について現在槍玉に挙がっている倫理上の問題は,後になってから提起された問題だ。科学者による実験動物の扱いという点では,最後の隔離と抑うつの研究を例外として,ハリーがその長いキャリアの中で主流から外れたことはほとんどなかった。
デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.393-394
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