カーター大統領が在任中,自らの信仰について言及した時,ある日本の経済人が「宗教などは青二才の言うこと」と軽蔑した,と新聞に報道されたのを記憶しているが,つくづく日本とアメリカの相互理解の難しさを思わされた。
日本人,ことに学校制度を成績優秀で駆け上がったエリートの宗教に対する考え方には,神は実在するかどうかを知力で証明しなければならないというところがある。私の大学時代の経験からいっても,級友たちの議論はマルクス主義から見た宗教でなければ哲学的論議という,いつも経験の裏打ちの少ない知的ゲームであった。ある意味では,世界中のアジア,その中の日本,さらにその中のその他大勢にすぎなかった大学生ですら,過去200年のフランス啓蒙主義の影響を受けて,宗教を頭でしかとらえることのできない環境に染まってしまっていたのかもしれない。級友も私も家伝来の宗教はあっても,自らその宗教を日常生活で意識的に実践した者はほとんどいなかった。第二次世界大戦後の日本で,私たちだけが例外だったとは思えない。
ところがアメリカの場合は,宗教は生まれた時から日常の人生経験である。キリスト教の家に生まれれば,神が存在するや否やという疑問が浮かぶ前に,もの心つく時から「神様」が自分を守ってくれるという理解は,それを教える親への信頼感から出発する。食事の前のお祈り,夜寝る前のお祈りを教えられ,それが習慣になる。大半の親は子供連れで定期的に教会に行く。それほど宗教心篤い家庭でなくとも,幼児のまわりには宗教のシンボルは無数にある。児童向けの本には絵やイラストの豊富な聖書物語がたくさん出ているし,クリスマスの季節になれば,聖書のイエス誕生からとられた芝居,讃美歌の合唱やクリスマス・キャロルで隣近所をまわるなど,子供のためのプログラムが盛りだくさんである。
ハロラン芙美子 (1998). アメリカ精神の源 中央公論社 p.295-296
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