簡単に言うと,こうした正統派の心理学者たちが否定的な見解を示したのは,嘘発見器が最近になって認められた心理学の科学的権威に挑戦すると同時に,それを利用していたからである。この権威の源となっていたのは,教養のある実験者のほうが素人の被験者よりも優位にあり,物理学や化学や生物学の研究者と同じく,精神の性質を自然の物体のように扱えるという考えだった。行動主義心理学研究の中心だったワトソンの学派などは,この考えをさらに推し進め,研究に値するのは被験者の行動であって意識ではないとまで見なしていた。そのため,嘘発見器の根本的な前提を受け入れるのは——被験者の中には意図的に嘘をつく者もいるという前提を受け入れるのは——心理学の研究がほかの科学研究とはちがうものであると認めることにほかならない。つまり,被験者には被験者の思惑があって,実験者を出し抜いてしまう場合もあるということを受け入れなければならなかったのである。すでにハーヴァード大学の研究者は,実験の目的を被験者が知っていると,嘘を見抜けないときがあることを発見していた。賢い被験者だと,「嘘を見抜かれまいと妨害する」ときまであるという。妻と協同で研究していたマーストン自身も,嘘つきにはさまざまなタイプがいることに——男と女,黒人と白人,嘘が上手な者と下手な者といった具合に——気づきはじめていたが,どんな人物が検査するかによって被験者の反応がちがってくるという衝撃的な事実も発表していた。たとえば,実験者が男(マーストン本人)か女(マーストンの若い妻)かによって,結果が左右されるのである。これは容易ならない報告だった。マーストンは認めていたが,心理学がほかの科学と別物だということになってしまうからである。
今日のわれわれは,この「発見」を聞いても当たり前すぎて別に驚かないし,むしろこれを認めようとしなかった心理学者たちの態度に驚かされる。だがよく考えれば,このような心理学者の態度も理解できないわけではない。被験者が実験者をあざむくということを認めれば,実験者も被験者をあざむくことで対抗しなければならなくなる。被験者から正直な答えを引き出すために,心理学者が実験で嘘を言うことも辞さなくなるのは,30年も先のことである。当時はまだ,嘘発見器を否定することと,心理学者たちが科学にとって最も大切だと見なしているものを肯定することは同じだった——研究者は正直であらねばならなかった。
ケン・オールダー 青木 創(訳) (2008). 嘘発見器よ永遠なれ:「正義の機械」に取り憑かれた人々 早川書房 pp.96-97
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