「開かれた科学」は,客観的な知識が科学者の「無欲」から生まれるという考え方を前提としている。科学者は金銭よりも研究成果の公開を優先しなければならない。そのためには——近代科学の歴史の中でときどきそういった主張がされてきたのだが——実力のみに基づいて科学者を評価する機関が,研究をつづけるのにじゅうぶんな資金を提供して報いる必要がある。こうしたシステムのもとでは,評判が科学者にとって最大の財産になる。しかし,そうした知識のためになぜ社会が金を出さなければならない?君主制国家や私立大学なら,みずからの威信のためにスポンサーになるかもしれないが,これではアメリカが物理学のために金とバレエのために出す金で,どうしてここまで差があるかを説明できない。実際のところ,これほど差がある大きな理由は,開かれた科学が人びとに知識を提供できれば,いますぐは無理でも長い目で見ればだれかの役に立つと(しばしば科学者自身によって)説明されてきたからである。こういう事情があるため,以前から科学者たちは,いずれはスポンサーの利益になるような研究を選んできた。
これに対し「ノウハウの独占」は,社会に有益なものを生み出すのが第一の使命であり,製品やサービスの形で知識から利益を得るのを目的としている。しかしながら,そのためには知識を秘密にして,市場価格を損なったり競争相手を利したりするのを避けなければならない場合が多い。中世のギルドやコカ・コーラやマンハッタン計画などはその典型例だろう。問題は,知識を秘密にするのがたやすくなく,特にそのノウハウの実用性を他人に証明するとなれば,なおさら秘密にしにくいことである。社会もまた,貴重な秘密が発明者とともに失われ,新しい知識につながらずに終わってしまうのではと懸念する。近代社会が特許制度を編み出したのはこうした事情からであり,これは期限つきで知識の独占利用を許すと同時に,発明者に公表の責任を負わせる制度である。この場合,発明者にとってはタイミングが重要になる。つまり,いつまで情報を秘密にし,いつ特許を出願するか決めなければならない。知識の独占によって利益を得ているために,知識を切り売りする者たちが「無欲」とは見なされにくいという問題もある。
もちろん,知識を得るための方法が,いま説明したようなふたつのアプローチのどちらかにきれいに分けられることはまずない。近代の民主社会では,両者が渾然一体となっており,一方が決定的な主導権を握っているわけではない。開かれた科学をめざす発明者でも,その多くは研究成果を社会問題の解決に役立てたいと考えている——みずからの研究が正しいと認めてもらうためにも。ノウハウの独占を追求する者でも,その多くは評判を非常に気にかける——みずからの発見や技術の商品価値をあげるためにも。開かれた科学とノウハウの独占は,仇敵同士でありながら,どちらが欠けても立ちゆかないものなのである。
ケン・オールダー 青木 創(訳) (2008). 嘘発見器よ永遠なれ:「正義の機械」に取り憑かれた人々 早川書房 pp.125-126
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