これは大きな意味を持っている。心理学の研究によれば,たとえ空の箱であっても,その装置にかかれば自分の感情が見抜かれると思い込んだ被験者は,反社会的な考えを持っていることを認めてしまうという。これはどんな取調官の手引きでもすすめられている方法である。相手に告白させるためには,何をしたかこちらがすでに知っていると思わせ,非難を控えることによって,抵抗感をやわらげてやるといい。ローマ・カトリック教会が聴罪師に匿名での懺悔を認めているのもそれが理由だし,信者は神が自分のおこないを知っていて,すべての罪をお許しになると教えられる。容疑者も同じように,嘘発見器の前で自白するのは,人に対してではなく,すべてを知り理解している科学に対して自白するのだと信じるように仕向けられる。もちろん,裁判官と陪審団はそこまで親身になってくれないと思い込まされる。
だからといって,すべてのアメリカ人が嘘発見器に全幅の信頼を置いていたわけではないし,否定派もけっして少なくはなかった。キーラーやその支持者の努力にもかかわらず,装置をいんちき呼ばわりする声は早くもバークレーの時代からつねにつきまとった。しかし,どれだけ強く疑おうと,疑うという行為そのものを疑う余地は残る——興行師のP.T.バーナムはこの手の自己不信につけ込むのが実に巧みだった。ひょっとしたらこんな機械でもほんとうに役に立つのかもしれない。後ろめたいことがあると顔が赤くなって鼓動が早まるというのはありえる話では?椅子に縛りつけられたら,だれでも動揺するのでは?そして検査技師にいきなりカードをあてられたら……。
ケン・オールダー 青木 創(訳) (2008). 嘘発見器よ永遠なれ:「正義の機械」に取り憑かれた人々 早川書房 pp.187
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