手術後にフロイトは口の中に義歯をつけねばならなくなった。これは痛みを伴ったが,つけないときちんと話したり食べたりできなかった。ずっとつけていると痛かったが,しかし長い時間はずしていると縮んできちんとつけられなくなるという重大なリスクがあった。アパートには小さな消毒室があって,旅行でもしていないかぎりアンナは義歯をはずしてきれいに洗い,口に戻すことを毎日行っていた。フロイトは常に誰かがもっとよい義歯を作ってくれることを望んでいた。しばらくフロイトはペンで書きものをすることができなかったので,続く半年間の彼の手紙はタイプ打ちであり,「うまく話ができないかもしれませんが,家族や患者はわかると言ってくれます」とサムに書いている。
しかしフロイトは喫煙を辞めなかった。続く16年の間にフロイトは前ガン状態の病変を切除する手術を30回も行わねばならなかったのだが,最新の技法を常に心得た優秀で献身的な外科医に恵まれていた。それでも「その結果は,たえまのない拷問の生活であった」とフロイトの最後の主治医であったマックス・シュールは『フロイト 生と死』で記している。
デヴィッド・コーエン 高砂美樹(訳) (2014). フロイトの脱出 みすず書房 pp.100-101
PR