1934年2月19日にフロイトはマリー・ボナパルトに「ナチスがここへ来て,ドイツにおけるのと同じように無法地帯になったら,もちろん出ていかねばなりません」と書いている。翌日には息子のエルンストに「できるだけ大きな騒音をかきたてるというあらゆるジャーナリズム報道の指導原則により,発砲されたこの町の中でなにが起こったのかを新聞から読み取ることは,たしかに容易ではない。われわれにいちばん痛切に感じられたのは,ほとんど24時間電気がつかなかったということだ」と書いているが,少なくともマッチがまだついたということは慰めだ,とジョークを飛ばしている。勝者は「このような状況において犯されがちな過ちをする」ものであると。
こうした騒動ののちに,ドルフースは半独裁政権を樹立したが,彼は敬虔なカトリックであり,教会を攻撃するつもりはなかった。しかしながら,ドイツではナチスはユダヤ人に対して規制の手を緩めることなく,次々に法令を成立させ,どんどん規制をかけ,次々に暴力的行為に及んだ。律法に適った肉屋は非合法となり,ユダヤ人は第1次世界対戦で著しい功績を残したものであっても軍隊から除外された。新しい法律ではユダヤ人と非ユダヤ人の間の性行為も非合法的なものとされた。
デヴィッド・コーエン 高砂美樹(訳) (2014). フロイトの脱出 みすず書房 pp.189-190
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