しかしながら,フロイトはまだ完全にナチスの手を逃れたわけではなかった。彼が言うように,ナチスは彼から「血を出させ」続けた。7月18日にナチの外貨局は,フロイトにオランダの通貨ギルダーで保管されているスイスの銀行口座を引き渡すように指示してきた。従わないとウィーンに残っている4人の妹たちがひどい目にあうかもしれないので,彼は指示に従った。この口座は結局,7月31日に閉じられたので,ナチスはさらに彼からお金をとったことになる。金はいつものように弁護士のインドラ博士によって彼らに送られた。だが,まだ少なくともザウアーヴァルトの助けを借りて秘密にしていた口座が1つと,ギリシア大使館によってこっそりと持ち出された金塊があった。フロイトはメアスフィールド・ガーデンズ20番地の家を6千ポンドで購入する手はずを整えていたので,なにか資金があったことになる。マリーからはお金を借りなかった。ザウアーヴァルトの見積ではフロイトの資産は200万シリングがいいところである。ロンドンの不動産の値段の歴史に理解のある地元の不動産鑑定士であれば,フロイトは新居にお金を払い過ぎたと思うだろう。それよりも注目すべきことに,フロイトはバークレイズ銀行から不動産抵当貸付を得ることができた。そのような保守的な時代の82歳の人間にとってはすごいことである。
郵便局員が「フロイト,ロンドン」と宛名があるだけで,どこに配達すればいいのかわかると言っていたほど,フロイトはたくさんの手紙を受け取っており,「一異邦人にとって驚かざるをえないほど頻繁に別種の書状も届いたが,それらは私の魂を救済せんとするもの,私にキリスト教の道を教示せんとするもの」であって,こうした「善良な人びと」は人生の最後に,彼をキリスト教徒にしたかったのだろう。
デヴィッド・コーエン 高砂美樹(訳) (2014). フロイトの脱出 みすず書房 pp.316-317
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