ツンベルクの『江戸参府随行記』にも,日本人が男女問わず煙草好きで,訪問客があれば,まず煙草盆がその客人の前に置かれることを記している。
茶道でも煙草盆に関する細かい作法があるし,特に多くの客がいる大寄せの茶会では,正客(主賓)の前にあらかじめ煙草盆を置くものとされている。また,茶道用の煙草盆はセットで売られることが多いが,これは本格的な茶会では煙草盆を複数準備しなければならないからである。つまり,客の数だけ揃える必要があるのだ。
要するに,店などで客の前に灰皿にあたるものがなければ,吸ってはいけないと心得るどころか,店の側の無作法が問われてもおかしくなかったのである。
長い江戸時代の間には,幕府が幾度か煙草禁止令を出した例もある。しかし,それは煙草嫌いの人に配慮しろというものではなく,嗜好品としての煙草を贅沢とみなして倹約奨励の目的で禁じるものだった。
また,幾度も出されたということ自体,その禁止令に実行力はなく,江戸の大方の人々は煙草好きであり続けたことを示している。
原田 実 (2014). 江戸しぐさの正体:教育をむしばむ偽りの伝統 星海社 pp.72-73
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