だいぶ話がそれてしまったが,H.Mは海馬の大部分を手術で取り出したため,新しいことが覚えられなくなった,というのが心理学,脳科学などの分野では定説になっていた。1990年代にCTスキャン,MRIによってH.Mの脳を画像診断した結果,どうも海馬を除去したようだという点が繰り返し報告された。そのため,この症例を出してきて記憶には海馬が重要な役割を果たしているという論を展開するというのが,この20年の心理学,脳科学,認知科学界の常套的手法であった。
2014年,『ネイチャー・コミュニケーション』という科学界最高峰の学術誌において,このH.Mを巡るストーリーに疑問が投げかけられた。2008年12月にH.Mは死去する。その後,彼の脳は大切に保管されていた。この保管された脳の切片から,アネセ(UCサンディエゴの放射線学の助教)らが脳の全体像を詳細に復元した。3Dコンピュータグラフィックスの技術を用いて,詳細に脳のどの部分が切除されていたかを明らかにした。すると,なんと海馬の大半は切除されずにH.Mの頭の中に残っていたことが明らかになったのである。1990年代のCTやMRIの精度はまだ粗く,解像度や位置情報の正確さに問題もあった。そのため,1990年代には海馬の消失程度が過分に見積もられていたようなのである。
妹尾武治 (2014). ココロと脳はどこまでわかったか?脳がシビれる心理学 実業之日本社 pp.178
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