いまでも,人の言葉を聞いて,すべての単語とその細部まで完全に理解できても,それにふさわしい対応ができない。たとえばある人がぼくに「コンピュータで原稿を書いていたら,押すつもりのないキイをたまたま押してしまい,全部消してしまった」と言ったとする。ぼくの頭のなかでは,その人が押すつもりのないキイを押してしまったこと,そのキイを押したとき原稿を書いていたことはわかる。しかし,そのふたつの発言をつなげて全体像(つまり原稿が消えてしまったこと)を思い描けない。子どもの本などに,点と点を順番につなげていくとある形が現れてくるものがあるが,それと同じで,点のひとつひとつは見えるが,それをつなげて形にできない。だから,「行間を読む」ことができないのだと思う。
また,質問の形式をとっていない曖昧な発言にどう応じればいいかもよくわからない。相手の発言を情報として受け取ってしまう傾向が強い。つまり,ほとんどの人は言語を人づきあいの手段として使っているが,ぼくにはそれができない。ある人が「今日はあまりいい日じゃなかったよ」と言ったとする。その人は,相手から「それはたいへんだったね,なにかよくないことでもあったのかい?」といった言葉が返ってくるのを期待していることが,最近になってようやくわかってきた。
ダニエル・タメット 古屋美登里(訳) (2007). ぼくには数字が風景に見える 講談社 p.94-95
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