かなり前から繰り返し指摘されてきたことだが,医療の世界では市場原理はうまく働かない。ノーベル経済学賞受賞者のケネス・アローも,1963年に発表した画期的な論文のなかで,市場原理だけに任せておくと,安くて質の高い医療はなかなか提供されないと述べた。医療は主に次の2点で一般的な市場財とは異なる。1つはニーズの予想が難しいこと。もう1つは思いもかけず高額になる場合があること。たとえば,心臓発作を起こして冠動脈バイパス手術を受けるといったことは,いつ起きるのか事前にはわからない。そのためにいつ金を用意しておけばいいのかもわからないし,少々貯金してみたところで,大きな手術を受ければすぐに底をついてしまう。だからこそ保険に入るのだが,それで問題がすべて解決されるわけではない。なぜなら,保険に入るということは,どういう治療は受けられて,どういう治療は受けられないのかを他人に決めさせることを意味するからである。
一方,民間の保険会社は企業として利益を生むことを求められる。そして利益を増やそうとすれば,方法は2つしかない。売上を増やすか,原価を削るかである。保険会社の売上は被保険者が毎月支払う保険料であり,原価は会社の経費と会社が支払う保険金である。つまり,医療を受けずにすむような人々に加入してもらい,医療を必要とする人々を加入させなければ(前述のパージング),確実に利益が増える。
デヴィッド・スタックラー,サンジェイ・バス 橘 明美・臼井美子(訳) (2014). 経済政策で人は死ぬか?:公衆衛生学から見た不況対策 草思社 pp.179-180
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