たとえヒュームの結論に賛同しないとしても,彼の方法の経験主義的な精神を受け容れる人は,自分自身の感覚的証拠こそが最高法廷であると考えるに違いない。物理科学や自然法則について,あるいは奇跡について他人の証言の内容について,あなたが何をどう信じようと,あなた自身の経験がそれらのすべてを凌駕するだろう。もしあなた自身が一度も奇跡を見たことがないのならば,おそらくその事実こそが,奇跡の実現可能性を信じるための最大の障害となるだろう。
しかし逆に,あなた自身が聖アガタの傷が癒える瞬間を目撃したのであれば,あるいは溶岩流にベールを向けるや説明のつかないかたちで流れの向きが変わるのを目撃したのであれば,あなたはまさしく自分が尋常ならざるものを目撃したことを認め,ヒュームが何と言おうと,それを奇跡と見なすのではないか。
しかしそのときでさえ,自然の通常のあり方に逆らうような出来事を観察することと,あなたが超自然的あるいは神的な出来事を目撃したと信じることとの間には,ギャップがあるはずだ。より科学的な態度を取るならば,そうした出来事を「奇跡」ではなく「説明のつかない例外的事態」として扱うべきだろう。それはちょうど,実験室での実験が理論どおりの結果を生み出さなかったときのようなものだ。そうした例外的事態は自然界の作用に関する新発見につながるかもしれないし,説明のつかない頑固な例外のままであり続けるかもしれない。しかし,それを宗教的に受け取る必要はない。説明のつかない顕著な現象を明確に宗教的な文脈において体験して初めて,例外は奇跡に変わるのである。
トマス・ディクソン 中村圭志(訳) (2013). 科学と宗教 丸善株式会社 pp.82-83
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