隔離飼育したアオリイカは,鏡を水槽の中に入れるとすぐにそれに気付いたが,やがて鏡の前で鏡面と自身の体を平行にして定位した。アオリイカは,その体側にわたる鰭をひらひらと動かすことで1つの場所にとどまることができる。ホバーリングと呼ばれる行動だ。体を鏡面に平行にして,じっと水中の同じ箇所にとどまり続けている。つまり,このイカは鏡の前で固まってしまったのだ。英語でいうところの“フリーズ”である。
ここで,体を鏡面に対して平行にするということは,鏡面に向いている片方の目で鏡面に映る自分自身を見ることができるということである。実際に,このイカは,じっと同じ姿勢を保持して片方の目で盗み見るようにして自身の鏡像を見続けていたのである。なんだか,張りつめたような空気が流れている気がした。こんな行動をこのイカが示すのは初めてのことで,隔離期間中も集団飼育の個体と特段に変わることなく,狭いとはいっても水槽の中をごく普通に泳いでいた。明らかに,長い隔離期間のあとに鏡を見たことにより引き起こされた特異な行動である。
鏡を示した翌日に,いつものように餌をやろうとして隔離水槽の蓋を開けたぼくは一瞬息をのんだ。件の隔離個体のイカは水槽底に横たわり死亡していたのだ。隔離期間を通じてこのイカが衰弱していたわけではない。毎日,ごく普通に餌を食べ,鏡提示当日もいつも通り餌を食べ,遊泳していた。つまり,この個体はきわめて正常であったのだ。死亡個体をすぐさま解剖してみると,成熟したオスであり,胃の中に大量の海水が入り込み大きく膨れていたことを除いて,特段の所見はなかった。隔離個体のフリーズとその死は,衝撃的な結果であった。
池田 譲 (2011). イカの心を探る:知の世界に生きる海の霊長類 NHK出版 pp.226
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