絶対数でいえば,文明社会の破壊行為は原始社会とは比べものにならないのは当然だ。しかし比較のためには絶対数を使うのがいいのか,それとも相対数,つまり人口に対する比率を用いるべきなのだろうか?
これは,100人の人口の半分が殺されるのと,10億人の人口の1パーセントが殺されるのと,どちらが悪いかという道徳的善悪の測りがたい問題を私たちに突きつける。1つの考え方はこうだ。1人の人間が拷問されたり殺されたりしたとき,その苦しみの度合いは,ほかに何人の人間が同じ運命に遭おうと変わらない。したがって私たちが同情を寄せ,分析の対象にすべきなのはこうした苦しみの合計だという考え方である。だが別の考え方もある。生きるということは取引であり,人は暴力や事故,病気などの理由で早死にしたり,苦しみながら死ぬ危険を冒しつつ生きている。したがってある特定の時代と場所で十分な生を謳歌する人の数は道徳的な善として教え,これに対して暴力の犠牲になって死ぬ人の数は道徳的な悪として数えなければならない。別の表現を使えば,「もし自分が,ある特定の時代に生きていた人の1人だったとしたら,自分が暴力の犠牲になる確率はどのくらいあったか?」ということだ。この2番目の論理にしたがえば,異なる社会間の暴力の有害性を比較する際には,暴力的行為の数ではなく,その発生比率に注目すべきだという帰結になる。
スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.108-109
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