その最悪の例は,子どもの自閉症とMMRワクチン(麻疹,風疹,耳下腺炎の3種混合ワクチン)の関連をめぐるパニックだろう。1998年,アンドリュー・ウェイクフィールドと同僚の医師たちがまとめた論文が『ランセット』誌に掲載された。自閉症と炎症性腸疾患(クローン病)を併発した12人の子どもの症例を紹介したものだ。その論文によると,自閉症は腸疾患によって引き起こされた可能性があり,さらに腸疾患はMMRワクチンの接種後に急に発症しているので,ワクチンが自閉症の原因と考えられるということだった。
ウェイクフィールドはロンドンのロイヤル・フリー・メディカル・スクールの講師で,カナダで外科医の訓練を受けた人物である。論文が議論を巻き起こしたあと,彼は記者会見を開き,3種のワクチンを一度に接種したため子どもの免疫系に過度の負担がかかってクローン病を引き起こし,それが自閉症につながった可能性があると説明した。そしてMMR接種の安全性には「十分な不安」があるので,3つの病気に対応するひとつのワクチンを開発すべきだと主張した。それに対してロイヤル医学協会の倫理委員会の会長だったレイモンド・タリス教授は,次のように語っている。「これを無責任と呼ぶのは--彼の論文に示された証拠は,この結論を導き出せるだけのものではないから--控え目な表現以外のなにものでもない」
ウェイクフィールドの説は,その後,数件のより大規模で厳密な調査によって否定されt。一例をあげると,医学研究協議会は5000人以上の子どものワクチン接種記録を調べ,MMRと自閉症の間に関連性がないことを確認した。それでも,心配した親,代替療法の専門家,タブロイド紙のコラムニスト,著名人,日和見主義の政治家が,口々に「ひょっとしたら(関連が)あるのではないか」と騒ぎ立て,関連性がないという明白な事実に目を向けてもらえるようになるまでに何年もかかった。
この騒動のせいで,子どもに3種混合ワクチン接種を受けさせなかった親は数え切れない。パキスタンで,ポリオワクチンはイスラム教徒の断種をたくらむアメリカの陰謀だというデマが広まったせいで,子どもにワクチンを接種させなかった親が無数に出たのと同じだ。2002年には,ロンドン市長のケン・リビングストーンが,MMR接種を見合わせるように呼びかけた。「14ヵ月の子どもはきわめて脆弱だ。私はこの予防接種を別々に受けた覚えがある。別々に受けても深刻な反応が出るものだ。いっぺんに全部すませる必要があるだろうか?」。イギリス医学協会のイアン・ボーグル会長は,リビングストーン市長によるこの無責任な発言で「取り返しのつかない被害がもたらされた」と非難した。偶然かどうか,ロンドンでワクチン接種率が低下すると同時に,麻疹の発病率が上がった。タリスが指摘したように,麻疹はごくまれに命にかかわる場合や,脳損傷を引き起こす場合がある。数百人の子どもの命を奪いかねない伝染病なのだ。いずれにしても,回避できたはずの全国的パニックを収拾するためにNHSが費やした費用は,数百万ポンドにのぼった。
ダミアン・トンプソン 矢沢聖子(訳) (2008). すすんでダマされる人たち:ネットに潜むカウンターナレッジの危険な罠 日経BP社 pp.132-134
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