犯罪の動向の説明に使われるもう1つの有力な要因——経済——も,この場合にはほとんど役に立たない。たしかにアメリカの失業率は1990年代に下がったが,カナダでは逆に上がっており,それでも暴力犯罪の発生件数はカナダでも減少しているからだ。フランスとドイツでも失業率が上がったのに暴力犯罪が減少したが,アイルランドとイギリスでは失業率が下がったのにもかかわらず暴力犯罪が上昇した。これは,一見して思うほど驚くことではない。犯罪学者のあいだでは,失業率と暴力犯罪のあいだには明確な相関関係は存在しないことは長く知られている(失業率と窃盗犯罪にはなんらかの相関関係がある)。それどころか,2008年の世界金融危機から3年間,大恐慌以来最悪の景気後退が起きたときも,アメリカの殺人発生率は14パーセント減少したのだ。これを受けて犯罪学者のデイヴィッド・ケネディは,取材に応えてこう述べている。「誰の頭にも刷り込まれている考え——経済が悪くなれば,犯罪率が上がる——は間違っている。そもそもそれが正しかったことなどないのだ」。
スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.226-227
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