1990年代の暴力犯罪の減少は,暴力研究における奇妙な仮説の1つが生まれるきっかけをつくった。本書の執筆中,暴力の歴史的減少についての本を書いているという話をすると,何人もの人から,そのことはすでに説明がついていると指摘された。彼らによれば,暴力事件の発生件数が減ったのは,1973年にアメリカ最高裁が下した「ロー対ウェイド」裁判の判決によって妊娠中絶が合法化されたからだという。これにより,望まない妊娠をした女性や母親としての適性を欠く女性が中絶するようになったため,成長して犯罪を犯すような子どもが生まれずにすむようになったというのだ。2001年に経済学者のジョン・ドノヒューとスティーブン・レヴィットがこの仮説を提唱した時の私の反応は,あまりに話ができすぎているというものだった。見過ごされていた単一の事象が大きな社会動向を説明するという仮説が降ってわいたように出てきて,その当時は一定のデータによって裏づけられたとしても,そうした仮説はほぼ確実に間違っている。だがレヴィットは,ジャーナリストのスティーブン・ダブナーとの共著『フリーコノミクス』(邦訳『ヤバい経済学』)のなかでこの説を紹介し,同書がベストセラーになったおかげで,いまやかなりのアメリカ人が,1990年代に犯罪率が低下したのは,1970年代に犯罪者になることを運命づけられた胎児が中絶されたからだと信じている。
スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.228
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