奴隷制と近い関係にあるのが債務奴隷である。聖書の時代や古代以降,借りた金を返済できなかった者は奴隷にされたり,投獄されたり,処刑されたりしてきた。「厳格な」「苛酷な」という意味の形容詞 draconian の語源は古代ギリシアの立法官ドラコンだが,ドラコンは紀元前621年に債務返済不能になった者を奴隷とする法を制定した人物だ。『ヴェニスの商人』で,借金を期日までに返せなかったアントニオがシャイロックに肉を切り取られそうになるのもこの債務奴隷と関連する。16世紀には債務不履行に陥っても奴隷にされたり処刑されることはなくなったが,債務者監獄は大勢の人であふれていた。無一文であるにもかかわらず食べ物は有料の場合もあり,債務者たちは監獄の窓から通行人に物乞いをして何とか生き延びるしかなかった。19世紀初頭のアメリカでも,女性を含む何千人もの人びとが債務者監獄で悲惨な生活を送っていたが,その半数の借金は10ドルにも満たなかった。1830年代になると,債務奴隷に反対する改革運動が起こり,奴隷制廃止運動がそうだったように人びとの理性と感情の両方に訴えた。議会の委員会では,「たとえどんな場合であれ,債権者に債務者の身体を支配する権力を与えること」は正義の原則に反するとの見解が出された。委員会はこうも表明している。「もしあらゆる弾圧の犠牲者が,その破滅的運命に関わった妻や子,友人たちとともに1つの集合体としてわれわれの目の前にあらわれたとしたら,それは全人類が恐怖で身震いするほどの光景となるだろう」。債務奴隷は1820年から40年の間にほとんどすべての南北アメリカの国家で,1860年から70年の間にほとんどのヨーロッパの国家で廃止された。
スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.290-291
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