最後にもう1つ,核による平和説では,実際に起きた戦争では,非核武装国が核武装国を挑発した(あるいは,核武装国に譲歩しなかった)ケースが多々ある理由を説明できない。これこそまさに,核の脅威で抑止されるはずの対立ではないか。北朝鮮,北ベトナム,イラン,イラク,パナマ,ユーゴスラビアはいずれもアメリカに公然と逆らい,アフガニスタンやチェチェンの反政府武装勢力はソ連に逆らった。エジプトはイギリスとフランスに,エジプトとシリアはイスラエルに,ベトナムは中国に,そしてアルゼンチンはイギリスに反旗を翻した。さらにいえば,ソ連がヨーロッパに支配体制を築いたのも,アメリカが核兵器を保有し,ソ連は持っていなかった時期(1945〜49年)なのだ。核を持つ優位国を挑発した国は,自殺行為に走ったわけではない。存在そのものの危機にさらされないかぎり,核攻撃という暗黙の脅迫はこけおどしでしかないということを,正しく予想していたのだ。アルゼンチン政府がフォークランド諸島への侵攻を命じたのは,イギリスが報復としてブエノスアイレスを放射能で焼きつくすことはないという絶対的な確信があってのことだった。同様にイスラエルも,1967年(第三次中東戦争)に続き1973年(第四次中東戦争)にも,エジプト政府はもとよりエジプト軍に対しても,確かな脅威を与えることはできなかった。
スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.476-477
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