ではカテゴリー化の何が問題なのか?それは,往々にして統計という範囲を超えてしまうことにある。第1に,人はプレッシャーがかかったり,何かに気を取られたり,感情的になったりすると,カテゴリー化が大づかみなものであることを忘れ,まるでステレオタイプがすべての男女,子どもに例外なくあてはまるかのように行動してしまうことがある。また,人は自身の属するカテゴリーを道徳的に解釈しようとする傾向があり,同類には称賛に値する特性を,敵には非難すべき特性をあてがう。たとえば第二次世界大戦中,アメリカ人はドイツ人よりソ連人の国民性のほうが望ましいと考えていたが,冷戦期になると,その考えは180度逆転した。第3に,人は集団を本質的なものと見なす傾向がある。出生後すぐに親と別れた赤ん坊は,養父母と生物学上の親のどちらの言葉を話すようになると思うかを尋ねる実験がある。子どもの被験者は,生物学上の親の言葉を話すようになると考える傾向が強いが,成長するにつれ,特定の民族や宗教の集団に属する人びとは,生物学的本質に準ずるものを共有すると考えるようになる。それによって他の集団とは明確に区別できる,同質で変わることのない,予測のつく存在になるのだ,と。
人をカテゴリーの一例とみなす認知習慣は,人と人とが衝突する場面では実に危険である。ホッブズの言う3つの暴力の誘引——利益,恐怖,抑止——が,個人間のケンカの原因から民族紛争の理由に変わってしまうのだ。ジェノサイドはこの3つの誘引に,さらに2つの“毒素”が加わって引き起こされることが歴史的研究によって明らかになっているが,これについては後述する。
スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.563
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