子どもはもう安全だと言うには早計だが,かつてよりはるかに生きやすくなっているのは確実である。実際,ある面では,子どもを暴力から守るための努力はその目標を通り越して,聖域やタブーの領域に入りはじめていると言えなくもない。
そうしたタブーの1つが,心理学者ジュディス・ハリスが言うところの「子育ての前提」である。ロックとルソーは子どもを世話する人間の役割を,子どもを叩いて悪い行いを矯正することから子どもの将来の人格を形成することへと書き換えることで,子育ての概念化に革命を起こす下準備をした。その結果,20世紀末までには,親は子どもを虐待したり放置したりすることによって子どもに害をなすことができるという考えが(これは事実だが)発展して,親は子どもの知性や性格や社会的技能や精神障害をつくりあげることができるという考えができあがった(これは事実ではない)。これのどこがいけないのか?それは,移民の子を考えてみればわかる。彼らは最終的に,自分と同じ社会的立場にある人々のアクセントや価値観や規範を身につけるようになるのであって,自分の親のそれを身につけるのではない。つまり,子どもは家族のなかで社会化されるというよりも,身のまわりの集団のなかで社会化されるのである。子どもを育てるには村が必要なのだ。そして養子に関する研究は,養子の最終的な性格や知能指数が生物学的な兄弟のそれと相関関係をなし,養子先のきょうだいのそれとは相関関係をなさないことを明らかにしている。つまり,成人してからの性格や知性は遺伝子によって形成され,偶然によっても形成されるが(たとえ一卵性双生児のあいだでも相関関係は完璧とはほど遠いので),親によってではなく,少なくとも親が子どもに何をしたかによって形成されるわけではないということだ。これらの反証にもかかわらず,親の育て方が子どもの将来を決めるという「子育ての前提」は専門家の意見に完全な支配を及ぼし,母親たちは24時間ぶっ続けの子育てマシンと化すよう助言されてきた。そして子育てのなかで小さな空白の石版に刺激を与え,社会への適合をさせ,その性格を発達させる責任を負わされてきたのである。
スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.122-123
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