この対抗プロセス説は,それだけではやや未熟で,たとえばこの理屈でいくと,やめたいときにいい気持ちになれるからという理由で,人は自分の頭を叩きつづけるなどという予測がなされてしまう。いうまでもなく経験の種類によって,作用と反作用との引っぱりあいの強さは異なるし,作用がどれだけ弱まり,反作用がどれだけ強まるかの進み具合もちがってくる。したがって一部の嫌悪経験だけが,とくにその経験を克服させてしまうに違いない。心理学者のポール・ロジンは,ある種の獲得嗜好の症候群があることを突き止めて,それを「無害なマゾヒズム」と名づけている。そこで好まれている逆説的な快楽とは,たとえば激辛のチリペッパーや強烈な匂いのチーズや辛口のワインを賞味したり,サウナやスカイダイビングやカーレースやロッククライミングなどの極限的な経験に身を置いたりすることである。これらはすべて大人の嗜好であり,その世界に入ってくる新参者は,苦痛や吐き気や恐怖という最初の反応を乗り越えないと玄人にはいたれない。そしてこれらの嗜好はすべて,ストレス要因の量を少しずつ上げながら,自分を徐々にそれに慣れさせることによって獲得される。これらの嗜好に共通するのは,高い潜在的利得(栄養,薬効,スピード,新しい環境への理解)と高い潜在的危険(毒作用,体調悪化,事故)が一対になっていることだ。これらの嗜好の1つを獲得することの喜びは,現在の限界を押し上げることの喜びである。すなわち,自分が不幸を招かずにどれだけの高さ,辛さ,強烈さ,速さ,遠さにまで到達できるかを,細かく調整した段階を踏んで探求していくことの喜びだ。その究極の利点は,局所的な経験のなかにある有益な領域でありながら,生来的な恐怖や警戒によって初期設定では封鎖されている領域を,開放できることにある。無害なマゾヒズムは,この征服の動機が行き過ぎたものである。そしてソロモンとバウマイスターが指摘するように,嫌悪と克服のプロセスは,最終的に欲求と中毒にいたるまでに行き過ぎることがある。サディズムの場合,潜在的な利益はドミナンスやリベンジや性的アクセスであり,潜在的な危険は被害者や被害者の仲間からの報復だ。サディストはまぎれもなく玄人になる——中世ヨーロッパの拷問具,警察の尋問所,シリアルキラーの隠れ家は,概して恐ろしいほど洗練されている——うえに,ときには中毒にもなりうるのである。
スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.327-328
PR