心理学者のジョナサン・ハイトは,道徳規範を言葉で説明するのがいかに難しいかを力説し,その現象を「道徳の無言化」(moral dumbfounding)と称している。人はしばしば,ある行為が不道徳だと直感的に判断するが,それではなぜその行為が不道徳なのかを説明しようとすると,答えに詰まって,しばしば最後まで理由を考えつけないのだ。たとえばハイトが実験参加者に,実の姉妹と避妊措置をしたうえで自発的にセックスすること,捨てられていたアメリカ国旗でトイレ掃除をすること,自動車事故で死んだ飼い犬をその家の人たちが食べること,死んだ鶏を買ってきてセックスすること,死の床にある母親に誓った墓参りの約束を破ることが,道徳的に問題ないかどうかを質問したところ,いずれの場合もノーという答えが返ってきた。しかし,なぜそれがいけないのかを質問されると,参加者たちは言葉に詰まって悩み苦しんだすえに,降参してこう答えた。「わかりません。説明はできないんですが,とにかくそれは間違っているとわかります」。
たとえ言葉では説明できなくとも,道徳規範は往々にして,暴力的な行動への有効なブレーキとなりうる。すでに見てきたように,現代の西洋社会で,捨て子を安楽死させる,侮辱されたことへの報復をする,先進国が別の先進国に宣戦布告するといった,ある種の暴力が回避されている根本的な理由は,道徳を重視しているからでも相手に共感しているからでも衝動を自己制御しているからでもなく,そうした暴力行為が現実的な選択肢としてまったく念頭にないからなのだ。その種の行為は考慮されたすえに避けられているのではない。それは考えられもしない,笑ってしまうほど馬鹿げた行為なのである。
スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.452-453
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