今日の米国社会はこんなふうに映る。米国全土に太い線が走り,片側には大学を出た人々,反対側には大学を出なかった人々がいる。この線は鮮明になる一方だ。今や,この線のこちらにいるか向こうにいるかは,地域,人種,年齢,宗教,性別,階級といった他の線より強く,所得,態度,政治行動の違いを反映する。自分や子供の人生設計では,大学教育が願望の大きな焦点(最難関大学に進む可能性こそ,まさに心の底からの大志)である。学校で好成績をあげるという1つの狭い資質に対するテストが,成功への道の上にどっかりと横たわっている。この能力を持たない者は,あとで他の才能に恵まれていることを示そうとしても,その機会が大きく減ってしまう。
大学教育にこのような重荷を負わせたため,さまざまな副作用が発生した。大学や大学院への進学を助ける産業が丸ごと1つ誕生した。教育を受ける機会ということが,米国民の頭から離れなくなった。今ではこれに関する政治学,法学,哲学が存在するが,どれも50年前はなかった。教育を受ける機会の改善は,公職の立候補者の大半が基本公約に掲げている。親が子供に教育の機会を与えようとするのは,根本的に善なのだ。良い教育を受けるのに一生懸命になることは,米国民の人生最初の25年の主要課題である。教育を受ける機会が,猛勉強,期待,陰謀,操作,競争の対象になっている。
ニコラス・レマン 久野温穏(訳) (2001). ビッグ・テスト:アメリカの大学入試制度 知的エリート階級はいかにつくられたか 早川書房 pp.12-13
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