コナントが到達度テストを嫌ったのは,それが裕福な少年に有利だったからだ。そういう少年の親は,子供に最高の高校の授業を受けさせることができた。コナントは,社会のあらゆるところから非常に優秀な少年たち——リトル・コナントたち——を集めて,奨学金を与えたかった。コナントは,優生主義者でもIQテストを普及させる社会運動家でもないが,ブリガムが否定に転じた,生まれつきの知能の仮説は信じていた。テストをするなら,カギとなる資質を試せばいい。米国教育の将来像に関する議論の中で,チョーンシーは自分の立場を選ぶことに関心がなかったが,コナントはすでに選択を決めていた。コナントはIQテスト派に属したのである。自体が急展開し始める中,このことが米国民の生活の将来像に大きな違いをもたらすことになった。
1934年1月,コナントはチョーンシーとベンダーに,成績証明書と推薦状に加えてSATを使い,中西部から10人の若い男子を奨学金受給者に選んで,同年秋から大学に通わせるよう指示した(女子の場合は,ハーバード大学の姉妹校ラドクリフ大学に通うが,彼らはだれ一人として,女子も選抜できることに思い至らなかった)。
ニコラス・レマン 久野温穏(訳) (2001). ビッグ・テスト:アメリカの大学入試制度 知的エリート階級はいかにつくられたか 早川書房 pp.50
PR