「神は人間を平等に創造した」というのは,実はキリスト教史においてもかなり新奇な教えである。キリスト教徒は,ごく最近まで,神が人間を不平等に創造した,と信じていた。いや,もちろん聖書には「神の前で万人は平等だ」と書かれている。使徒パウロは,「もはや,ユダヤ人もギリシヤ人もなく,奴隷も自由人もなく,男も女もない。あなたがたは皆,キリスト・イエスにあって一つだからである」(「ガラヤテ人への手紙」3章28節)と言う。だが,その同じパウロは,教会の中で女性が指導者になることを許さず,妻は夫に従えと諭し,奴隷制をあるがままに容認していたのである。この矛盾はいったい何なのだろうか。
それを解く鍵は,「キリスト・イエスにあって」や「神の前に」などという言葉遣いにある。つまり,キリスト教は長い間,人間はみな宗教的には平等でも,社会的な現実においては不平等でよい,と考えてきたのである。人間社会には,上下の秩序がある。神が創られたこの世界には,支配する者とされる者,身分の高い者と低い者,豊かな者と貧しい者がある。だからこそ,その中でお互いに助け合い,上には上なりの品徳と権威が,下には下なりの献身と服従が求められるのである。
森本あんり (2015). 反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体 新潮社 pp.100
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