心理学はもともと哲学の一部門だった。その状況が変わったのは19世紀後半,ドイツの哲学者ヴィルヘルム・ヴントが心の働きについて推論するだけでなく,その仕組みを探るために実験をはじめたときからだ。ヴントと彼の賛同者は内観主義者という名で知られている。彼らは心理学を実験科学に変えるのに必要であった重要な一歩を踏み出した。ヴントらの主要な探求課題は意識的経験だった。彼らは自分自身の経験を研究し,それ以上小さくできない基本要素に分けようとした。
ところが20世紀にはいって,意識的経験は本人にしかわからず,他人には確かめようがないから,科学的研究は不可能だと主張する心理学者たちが現れた。この考えは勢いを得て,やがて行動主義を生み出した。行動主義は心理学が科学的に有効であるためには内面的状態ではなく観察可能な出来事(行動に現れた反応)に焦点を当てるべきだという前提にもとづいていた。行動主義の賛同者の一部は方法論的行動主義者だった。つまり,意識の存在を必ずしも否定しないが,意識は研究の対象になりえないと考えていた。それとは対照的に,急進的行動主義者は意識が存在するということを否定した。彼らにとって精神状態は行動の傾向が生み出した幻影にすぎなかった。ギルバート・ライルは急進的行動主義を心--身体問題の解決策とした。ライルは心を完全に排除し,物質的に説明できる物質的身体だけを残した。彼は精神状態をギリシア悲劇のデウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)をもじって「機械の中の幽霊」と呼んだ。デウス・エクス・マキナは人間の問題を解決するために舞台に降りてくる神のことだ。
20世紀のなかばに近づくころ,コンピュータのオペレーション(演算)と人間が問題を解決するときにおこなうことが似ていると考える学者たちが出てきた。この考え方はジェリー・ブルーナー,ジョージ・ミラーなど先見の明のある心理学者に注目され,情報を処理する内的メカニズムを重視する認知的アプローチが心理学に生まれた。これは心不在の行動主義に代わる魅力的なアプローチだった。やがて認知ムーブメントは行動主義を王座から引きずりおろし,心を心理学に連れ戻した。
ただし,戻ってきた心は厳密に言うと,行動主義者たちが排除したものと同じではなかった。行動主義者が反対したのは,内観主義者たちが心の内容(たとえば赤という色を経験すること)を強調したことに対してだった。だが,認知心理学者たちが研究していたのは(意識の内容ではなく)心のプロセスである。彼らは色を経験するとはどういうことなのかということより,色がどのように感知され区別されるかに関心があった。
ジョゼフ・ルドゥー 森 憲作(監訳) (2004). シナプスが人格をつくる:脳細胞から自己の総体へ みすず書房 pp.33-34.
(LeDoux, J. (2002). Synaptic Self: How Our Brains Become Who We Are. New York: Viking Penguin.)
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