Y-G検査は人間をその類型において把えるのではなく,その「特性」を問題にしているテストであったはずである。そこでは人間の日常的なふるまいや,感じ方の傾向を分析的に把えようとしていたはずであった。そして,日常的なふるまいや,感じ方に「価値」は直接関係ないはずであった。
しかし,現実のY-G検査はその「類型」を売りものにせざるをえなかった。しかも,この「類型」はテストを利用する側の事情に基づいて,はっきりと価値づけられていたのである。
皮肉なことに,「特性」を測るテストは「特性」にこだわっているかぎり,「有効な」テストとはなり得ないのである。
「特性」が問題になるのは「類型」ですそ切りをして,残った人々(ある種のパスポートを手に入れた人々)を効率的に処遇しようとする場合である。職業指導などにみられる特性—因子論的な立場などがまさにこれである。
このように,「特性論」に基いているテストによって,人間が「類型化」されることがまやかしでなくて何であろうか。しかも,この「類型」は「適応」レベル——「不適応」レベルといった形ではっきりと「序列化」されているのである。だから,私たちもまた,そうした「序列」を意識せざるを得なくされているし,また,ひとたび「類型化」された人間像はそれ自身が自立してしまって,個人的事情は無視され,個人を乗り越えてしまう。
Y-G検査は人間の「格づけ」を行ないつつ,それを可能にする論理や倫理を私たちに強制しているのである。
日本臨床心理学会(編) (1979). 心理テスト・その虚構と現実 現代書館 pp.257-258
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