教員たちは,自らの経験から「教員が生徒にする話とはこういうものだ」と勝手に理解している。本来,比較対象となる質の高い講演会をこまめに聞きに行くほどの勉強家は,多く見積もっても2割程度しかいない。多くは“多忙”を言い訳にして,自己を肯定している。だから,自分の話し方を反省することはないし,残念さに気づくこともない。
加えて「生徒は教員の話を聞くのが当たり前」と考える者が少なくないことも挙げられる。こういう思考回路からは,話法の向上や内容の精選に取り組むどころか,生徒が話を聞くときの心理にすら目を向けない姿勢が生み出される。そして“教員の話を聞かない”“居眠りをしている”生徒などが指導の対象となり,叱られることになる。
確かに倫理や道徳観の指導も担わされている現状があるので,生徒に舐められたら業務に支障が出るという教員側の論理はわからなくはない。しかし,このタイプの残念な教員は,「生徒は教員の話を聞くのが当たり前」というスタンスでは教育サービス業が成立しなくなったことに気付けていない。また,そんなスタンスで人間同士のコミュニケーションが成立するはずがないことも理解できていないのである。
林 純次 (2015). 残念な教員:学校教育の失敗学 光文社 pp.44-45
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