こうした自由意志の見方から,個人の責任についてなにが言えるだろう?私たちの遺伝子や過去経験といったものは,人間行動におけるその役割について私たちが理解しているかぎりでは,きわめて決定論的である。もしそれだけだとすれば,自由意志などないか,あってもほんのわずかだろう。私たちは,自分のどんな行為についても,どちらか一方の確定性の無力な犠牲者だと申し立てることができるだろう。犯罪行為のこうした説明は,現在,法廷でも一般的なものになりつつある。しかし,遺伝子と過去経験の両方から私たちを自由にするカオスの不確定性はまた,私たちに,自らの行為に対する責任を認めるように強いる。カオスは確かに遺伝子と経験のどちらにおいても筋書きとして書かれていないものを経験するように強いるが,私たちには驚異的な学習能力がある。私たちは,自分の行為がどのように自分の生に,そして周囲の人々の生に影響を与えるかを見て十分に理解できる。おそらくそこにあるものこそ,倫理的選択の定義,そして自由意志の本質であり,遺伝子や経験に規定されない個人的・社会的可能性のなかからどれかを選択する能力なのだ。
ウィリアム・R・クラーク&マイケル・グルンスタイン 鈴木光太郎(訳) 遺伝子は私たちをどこまで支配しているか DNAから心の謎を解く 新曜社 pp.347
(Clark, W. R. & Grunstein, M. (2000). Are We Hardwired?: The Role of Genes in Human Behavior. New York: Oxford University Press.)
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