そこでもう一度,翻訳の話にもどろう。これまでわれわれは何度か,同じドイツ語の文章が,異なる訳者によってさまざまに訳されてきた実例を見てきた。ある一つの文章を訳すときに,翻訳の正解は一種類ではない。5人の訳者がいれば,5通りの正しい翻訳ができあがる可能性がある。つまり正しい翻訳とは,非常に多くの可能性の束として存在しているということだ。
易者が使う筮竹(ぜいちく)という竹の棒がある。易者はその束を胸の前で混ぜ合わせながら,そこから一本ずつ抜き出し,占いを行う。翻訳もまたあの筮竹のようなものだ。誤訳や不適訳を除外して正しい翻訳だけを集めたとしても,それはけっして1つの文章に収斂することはない。正しい翻訳もまた多数の潜在的訳文の束として存在している。それぞれの訳者はその束の中からみずからの言語感覚に沿って1本の筮竹を選び出し,それを紙の上に固定していく。
ところがしばしば忘れられるのは,たとえばカント自身がドイツ語の一文を書いたときにも,同じように多様な表現の束の中から,最終的に1本の筮竹を抜き出して紙の上に記したという事実だ。1つのドイツ語文が多様な日本語に翻訳されうるように,カントの原文もまた,それとまったく意味の変わらない幾多の表現の束の中から選択されたものだ。たしかに最終的に実現したのは,たった1つの文章だ。しかしカントが,可能的な表現の束の中からもっとも優れた一文を選び出したという保証はない。それはきわめて偶然的なできごとにすぎない。じっさい,もう少し別の表現方法をとっていたならば,カントが伝えたかった文意がはるかに的確に伝わったであろうに,と思われる文章はいくらでもある。
鈴木 直 (2007). 輸入学問の功罪----この翻訳わかりますか? 筑摩書房 p.213-214
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