この行き詰まりを打開したのは,バージニア大学の心理学者ジョナサン・ハイトの2001年の論文だった。ハイトは「嫌悪の感情」に注目し,彼が「道徳的絶句」と呼ぶ現象に関心を抱いた。車に轢かれて死んだ飼い犬を料理して食べた一家の話や,国旗で便所を掃除した女性の話を読み聞かせると,彼らはみな嫌悪感を抱き,そのような行為はまちがっていると断じた。が,なぜそう考えるのかを説明できない人もいた。それらの例では誰も危害を加えられていないからだ。
自分の道徳的判断について説明できないのなら,論理的プロセスを経て判断しているのではない,とハイトは思った。
ここから彼は,人が道徳的判断をおこなう方法について新たな考え方を打ち出した。ほかの研究者の調査も参考にしつつ,人の道徳的判断には2種類あると論じたのだ。まず「道徳的直観」は無意識から生じ,ただちに判断が下される。もうひとつの「道徳的推論」による判断はそれより遅く,意識が事実を検討したあとで下される。“道徳的判断は,道徳的直観の結果として,自動的にたやすく意識に現れる……道徳的推論は努力を要するプロセスであり,道徳的判断が下されたあとに働く。そのプロセスで,人はすでに下した判断を支える論拠を探す”。
何世紀ものあいだ,哲学者と心理学者だけが注目していた道徳的推論による判断は,ハイトの見方によれば,たんなる概観にすぎない。正しい判断をしたことをまわりに印象づけるためのものだ。じつのところ,道徳をどう直感的に判断しているのかは,当人にはわからない。それらは無意識におこなわれ,意識的に知りうるものではないからだ。だから人は,なぜそう判断したのかと問われると,論理的に説明できる理由を探し,もっとも回答にふさわしそうなものを選んで,弁護士のように論じる。このために道徳をめぐる議論はたいてい激しく,決着がつかない,とハイトは指摘する。論争のどちらの側も,相手の主張に対して弁護士のように反論し,考えを改めさせようとする。が,どちらも,主張する論理的な理由ではなく,直観によってそれぞれの結論に達しているので,当然説得されない。要するに,相手の考えを論理で変えようとしても,実を結ばないのだ。
ニコラス・ウェイド 依田卓巳(訳) (2011). 宗教を生み出す本能:進化論からみたヒトと信仰 NTT出版 pp.25-27
PR