宗教行動を非適応とする有名な生物学者に,スティーブン・ピンカーとリチャード・ドーキンスがいる。偶然ながら,ふたりとも宗教を痛烈に批判している。
ピンカーは,宗教行動を適応と考える3つの理由を考察して退けたうえで,宗教が普遍的である理由について独自の仮説を唱えている。ピンカーはすぐれた心理学者であり,尊敬に値する著述家であるが,宗教には進化的利点がないという彼の立場には疑問の余地がある。
ピンカーが退けた3つの議論とは,(1)宗教は死や不安に直面したときに知的安らぎを与える,(2)宗教は共同体を結束させる。(3)宗教は道徳的価値の源泉である。
ピンカーが(1)を否定したのはまちがっていないだろう。どうして精神的な安らぎが多くの子孫を残すこと(自然淘汰の唯一の尺度)につながるのか。たしかにこれはわからない。(3)については,聖書は“強姦と虐殺と破壊の手引書である”として批判している。良書は“多くのアメリカ人が信じているのとは逆に,道徳的価値の源泉などではない。宗教がわれわれに与えるのは,石投げの刑,魔女の火刑,撲滅運動,異端審問,ジハード,ファトワー,自爆,同性愛者襲撃,中絶をおこなう医院への銃撃,わが子を溺死させる母親などだ。これらはみな,天国でひとつにまとまって幸せになるためだという”。
たしかに,確立された宗教はたえず分裂に直面し,それを過剰に抑圧する傾向があるけれども,だからといって宗教が道徳的価値の源泉であるという事実は変わらない。ほぼすべての宗教は,「自分がしてもらいたいことをせよ」という黄金律を,ほかの道徳的制約とともに,なんらかのかたちで符号化している。これらが社会構造を強化するなら,それは適応と考えられるだろう。
宗教は集団を結束させるので適応たりうるという(2)の議論について,ピンカーは“宗教はたしかに共同体を結束させるが”それはほかの手段でもなしとげられると反論する。“進化に,共通の敵と戦うために人々を結束させるというサブゴールがあるとしても,なぜ霊的な存在への信仰や,儀礼によって未来が変わるという信念が,共同体を強固にするために必要なのか。なぜ信頼や忠誠や友情や連帯といった感情では足りないのか。霊魂や儀礼を信じることが,人々の協力をいかに取りつけるかという問題を解決すると考えるべき,アプリオリな理由はない”。
しかし,どれほど奇妙な宗教行動であろうと,進化はそれを効果的であると見なしたのだ。歴史の大部分において,信頼や忠誠といった感情は共通の宗教から育っていった。すでに述べたように,懲罰神への信仰は,社会利益のために人々を協力させる手段として非常に効果的だ。そうして実現された結束が,共同体同士の生存競争のなかで適応的だったと考える理由は充分にある。
ニコラス・ウェイド 依田卓巳(訳) (2011). 宗教を生み出す本能:進化論からみたヒトと信仰 NTT出版 pp.73-74
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